双子の「核」

 

 たとえば「核兵器」と「原子力発電所」という二つの言葉がある。この二つは日本語としてはまるで異なるもののようだが、英語ではそれぞれ「nuclear weapon」と「nuclear power plants」である。つまり英語での表記を正確に翻訳すれば、「核兵器」と「核力発電所」なのであり、それは双子のように本性を同じくするものである。両者の違いとは、原子核反応を急激に爆発的に行うか、あるいはゆっくり制御しながら行うかだけなのである。
 しかし唯一の被爆国である日本では、この「核」という言葉は至る所で隠されている。非核三原則のもとに、日本にはいっさい核は存在しないかのように思われているが、実際は全国十八カ所にある原子力発電所が核そのものなのである
 たしかに前者は一瞬にして数十万人を死に至らしめる驚異的な殺傷力と破壊力を持つものであり、後者は何百万人もの人々に電力という生活に欠かせぬものを供給するものである。その果たす目的は天と地の差があるかもしれない。しかし後者はそれと同時に、使えば使うほど致命的な量の放射能を発する放射性廃棄物を延々と生み続け、そして十万年以上も放射能が消えることのないこの廃棄物の処分の仕方を人類はいまだに見いだしていないのである。またこの原子力(核力)発電所がひとたび事故を起こせば、その人的被害は核兵器以上にもなり得る。もし発電所内の格納容器が破壊され大量の放射性物質が大気中に広がれば、被曝した人々は急性死するかガン発症や遺伝的障害の恐怖に怯えて生きなければならない。また汚染された地域には何十年も人が立ち入ることができなくなることは周知の通りである。
 いずれにしてもこの双子の「核」は、地球上の生態圏に持ち込まれた「究極の異物」であり、ひとたびそれが暴走すれば未曾有の悲劇を人類にもたらすものなのである(詳しくは中沢新一氏の『日本の大転換』(集英社新書)をぜひご一読願いたい)。そして哀しいかな私たち日本人はこの未曾有の悲劇を広島、長崎、福島において経験してしまったのである。
 私たちは原子力発電所を「核力発電所」と言い換えてから、原発に関する議論に参加すべきなのである。
(詩誌『この場所ici』8号より)