鉄槌の日

 

 私は渋谷の桜丘町にある事務所に行くために、上下6車線もある大きな国道にかかる、巨大な蜘蛛が足を広げたように枝別れした歩道橋を渡っている。頭上には首都高速三号線が鯨のようにのしかかっている。人が小走りに歩く程度で、ぐらぐらと揺れるこの歩道橋の中央に立つと、私はいつも慄然とせざるを得ない。この瞬間、もし東京を巨大地震が襲ったとしたら…。
もし、ではない。今後、いっさい、永遠に、この東京が巨大地震に襲われないということはあり得ない。襲うことは確実である。それは歴史が証明している。それは周期的にやってくる。この周期が突然なくなることもなければ、とめることもできない。それは時の流れを止めるのと同じことである。地殻の変動を、プレートのずれを、誰が止めることができようか。そんな巨人も神も、ましてや人間の技術力もない。
 ゆえに「もし」ではなくて「いつ」なのだ。われわれが問えるのは「いつ大地震が来るのか」ということである。しかしこの問いに対してさえも、いまの人間の予知能力では不可能に近いのである。
 そのときがきたら、もはや東京は広大なる瓦礫の山である。東京に存在する建築物、構築物の圧倒的多数は、昭和55年に建築基準が強化される以前に建てられたもの、もしくはそのような耐震性をあまり考慮されずに作られたものばかりなのである。築年数のたった古い木造家屋やマンション、アパートはもちろんのこと、老朽化したビル、工場や倉庫、電柱、看板、工事現場の足場、そして歩道橋など、巨大地震の前に赤子の手をひねるがごとく、あっけなく崩れ去るものが大多数なのだ。それはもはや局所的なテロなどの比ではない。恐るべきほどの広い地域で、まさに地の底から揺り動かされ、破壊され、人々は抵抗する間もなく押しつぶされ、死ぬのである。それはまさに戦争である。戦争に匹敵する死である。そしてまた耐震性が保証されている近年の高層建築物や高速道路なども、決して100%ではないことはさきの阪神淡路大震災が証明している。構造計算をはるかに超えた、予想だにしない巨大なエネルギーを引き起こすのが自然という力の恐ろしさだからだ。
 国や地方自治体は発表する。この巨大地震で予想される死者数は5000人、7000人、いや1万人ですと。しかしこの数字とはいったいなんだろう。その数字を読み上げる人の声の冷静さとはいったい何であろう。
 おそらくその死者の数字の中に、この読み上げる本人自身や、その人の家族は含まれてはいないからだろう。自分や、自分の家族はまかりまちがってもこの数字の中には入らないだろうと、信じているからであろう。しかし、それはなんの根拠もないことである。もしこの数字の中に、自分や自分の家族が確実に含まれるとしたら? 彼はまったく異なった反応をするはずである。少なくともこの想定死者数なるものを冷静に読み上げることはできないだろう。
 国家とは、まず第一に国民の生命を守るための共同体である。それが大前提だ。しかし道路や鉄道を次から次へと作って、多少便利になる生活のために湯水のごとくお金を使っていながら、この数千、数万と言う単位で死にいたらしめる巨大な危機が、この50年の間にはほぼ確実にひとつは訪れるという現実に対しては、ほんのわずかなお金しか使わない。いったいこれが政治、国家と言えるのだろうか。
 世界の陸地のわずか0.28%しかない日本の国土。しかしその狭い国土で世界で起こるマグニチュード6以上の地震の約20%を引き受けているのである。そのことだけを見れば、もともと人間が住むべき場所ではないかも知れないのだ。しかしわれわれはそのような国に生きていかなければならない。しかも東京というもっとも危険な地域に、これほど巨大で、猥雑で、複雑怪奇な都市をつくり出してしまったのである。否、いまも東京は大地に杭を突き刺し、海岸を埋め立て、地中を掘り進みながら、その鉄とコンクリートの王国を増殖させ続けているのである。もはやそこには自然のもとある姿のかけらもない。そしていまさらこの都市から逃げ出すこともできなければ、作りなおすこともできないのだ。
 この無秩序な破壊と建設に、やがて恐るべき鉄槌が振りおろされる日が来ることを、われわれは認識すべきなのである。
(詩集『さよなら21世紀』より)