私刑としての世論

 

 「輿論は常に私刑であり、私刑はまた常に娯楽である。たといピストルを用うる代わりに新聞の記事を用いたとしても」
 これは芥川龍之介の『侏儒の言葉』の一節である。いまから80年以上も前の作品だが、まるでつい最近書かれたかのようである。
 先日、リビアでの反政府デモに端を発した内戦でカダフィ大佐が殺害されたが、その拘束時における暴力行為、そして死体の映像がインターネットによって瞬く間に全世界に流された。だが私が恐ろしく思ったのはこのカダフィ大佐に対する暴力行為そのものではない。その血塗られたかつての英雄の姿が、平穏な日常を送る家庭の居間や子供部屋におかれたパソコンでも、ごく簡単に見ることができたという現実である。
 法律を逸脱した暴力的制裁を私刑(リンチ)と呼ぶが、歴史を振り返ればそのような事例は数えきれぬほどある。しかし今回の事件が歴史的に見て異常なのは、その私刑の有様を世界中の人間が簡単に見ることができたということだ。まるで勧善懲悪のドラマでも見るかのように。そしてこの映像を見ることにより、人びとは無意識のうちにこの私刑に参加しているのである。
 また日本の近年の新聞やテレビ、週刊誌における報道ぶりを見ていると、まさに芥川のいう「輿論に名を借りた私刑、そして娯楽」があまりにも横行していることに気づくのである。
 政治家や著名人、あるいは大企業などにほんの些細な過ちやトラブルがあると、これでもかというほど徹底的に叩き、糾弾する。そして報道はすぐに責任論へと発展し、辞任や引退を問いただす。知らされるべき事の本質は全く違うところにあるのだが、なるべく世論の追従が受けられるような興味本位な話題へと焦点は絞られていくのである。そしてこのマスコミによる集中砲火を浴びて耐えきれぬ者は次々と潰されていき、その有様を人びとは娯楽として眺め楽しんでいるのである。
 「罪無きもののみ、この石持てこの女を打て」
 この聖書の古き言葉を、ふと思い出す昨今である。

(詩誌『この場所ici』6号より)