雲という種族

 

 先日、英科学誌「ネイチャー」に、月に誕生間もない頃から水が存在していた証拠を示す論文が掲載された。水分が存在するならば生命もまたあったのではないかとわれわれはすぐに色めき立つ。しかしこの宇宙にやたら生命の痕跡を求めたがる人間の性癖は、一方では大変ロマンに満ちたものであるが、また他方では極めて独善的なものにしかすぎない。
 われわれは世界にあるものすべてを生命か非生命かの2種類に分けて考える。そしてわれわれ人間を含めて、生命とはこの宇宙においてきわめて特殊で、貴重な存在様式であり、それを他の惑星などで発見することは大変困難なことであると考えている。しかしそれはこの宇宙にある存在が生命か非生命かの2種類しかないと考える極めて狭量な色眼鏡で見た結果であって、この想像を絶する広大な宇宙には生命とも非生命とも呼べないもっと他の特別な存在様式があったとしても決して不思議ではないのである。
 私はときどき空に浮かぶ雲というものが、何か特別な存在ではないかと思うときがある。たしかに雲は生命か非生命か、という2分法で考えれば、明らかに生命ではない。しかしそれはあくまでもわれわれ人間がこの世の中の存在を生命か、非生命かという自己中心的な眼鏡で眺めているからであって、もしこの世の中に生命とか非生命とかの範疇に分けることの出来ないものが存在するとしたら、どうなるのか。もともと生命とは新陳代謝と生殖という二つの特長で定義づけられるわけだが、たとえば自己というアイデンティティをもたずその構成要素がつねに離合集散をくり返しながらも、集合したときにはある知性的な能力を発揮して、かつ他の集合体ともコミュニケーションをとれるような存在様式があったとしたら、それは生命とも非生命ともいえぬものとなるのではないのか。そしてそれがまさに雲であって、彼らは人間の認識能力や常識の範囲を超えているので、それが特別な存在様式であることがわれわれには理解できぬだけかも知れないのである。彼らはもしかすると宇宙に偏在する一つの特別な種族であり、その離合集散の中でいまも様々な知的活動をくり返しているのかも知れぬのだ。
(詩誌『この場所ici』2号より)