天と精霊

 

 先日、NHKのドキュメンタリー番組『ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる』を見た。ヤノマミとはアマゾンの奥地に1万年以上の昔から住み、地球上に残る「最後の石器人」と呼ばれている部族の名である。番組では男たちが行うサル狩り、2ヶ月以上も続けられる祝祭、集団トランス状態で始まるシャーマニズムなど、様々な興味深い風習や儀式が紹介されたが、その中でも特に衝撃的だったのが出産に関するものであった。
 ヤノマミ族の女たちは平均14歳くらいで妊娠・出産するのだが、母親は森の中で出産すると、へその緒がついた赤ん坊を抱き上げることなくそのまま地面に放置しておく。ヤノマミ族のあいだでは、生まれたばかりの赤ん坊はまだ精霊であるという。その赤ん坊を人間の子として育てるのか、それとも精霊のまま天に帰すのかを、生んだ母親がその場で決断しなければならない。そして人間の子として育てることになれば、赤ん坊のへその緒を切り、母親が抱き上げ家へ連れて帰るのだが、もし精霊のまま天に帰すことになれば、もはや母親はこの赤ん坊にいっさい触れることができない。そして他の女たちの手によって、赤ん坊はバナナの葉にくるまれ白アリの巣の上に置き去りにされるのだ。そして白アリがその赤ん坊を食べ尽くした後に、その巣ごと焼き払い、煙とともにその精霊を天に帰すのだという。
 我々の道徳観からすればまさにこれは殺人、しかも残虐極まりない手法による子殺しである。しかし彼らにとって、それは生まれてきた赤ん坊を精霊のまま天に帰すという、「きわめて神聖なる行為」なのである。
 こうした風習を当然のように、否、むしろ聖なる行為として日常的に執り行っている現実を目の前に突きつけられると、われわれがもつ道徳や価値観というものが音をたてて崩れていくのを感じる。生命はたしかに尊い。しかし、その尊さにも様々なものがあるのだ。単純にわれわれの道徳観、生命観が絶対に正しいものであると言いうる根拠は、じつはどこにもないのである。
 わが国では人工中絶が年間約35万件くらいあるという。そしてそれは決して授かった生命を精霊に帰すといった「聖なる行為」として行われるわけではない。そのほとんどが「不都合な出来事」として病院のゴミ箱に捨て去られているのである。果たしてどちらがより人道的で、生命に対する尊厳に満ちているであろうか。
 ちなみに「ヤノマミ」とは彼らの言葉で「人間」を意味する。そして取材に訪れたTVスタッフたちを彼らは「ナプ」と呼んだ。それは「人間以下の者」という意味である。
(詩誌『この場所ici』1号より)