神はほんとうに死んだのか
「私が物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来たるべきものを、もはや別様には来たり得ないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす」(ニーチェ『力への意志』序言、原佑訳)
ニーチェの未完の大著『権力への意志』が書かれたのは1880年代、すなわ19世紀であるから、そこから二世紀というと、21世紀の終わりまで、つまりわれわれはニーチェの予言的言辞の範囲のいまだ半ばあたりにいるということになるのであろうか。
ではニーチェが語る「ニヒリズムの到来」とはいったい何であったのか。
「ニヒリズムは戸口に立っている。すべての訪問客のうちでもっとも気味悪いこのものはどこからくるのであろうか?−出発点、すなわち『社会的困窮状態』や『生理学的変質』や、ましてや腐敗を指示してニヒリズムの原因とするのは誤謬である。(中略)そうではなくて、一つのまったく特定の解釈のうちに、キリスト教的・道徳的解釈のうちに、ニヒリズムはひそんでいる」(前掲書一)
なぜ私がここでいまさらニーチェをひっぱり出してきたかというと、この20世紀から21世紀に移りゆく時代を見ていると、ニーチェの予言がますます現実のものになっているからである。
ニーチェが批判したのはキリスト教そのものというよりも、キリスト教に象徴される背後思想、すなわち死後の世界の存在を肯定することである。そのような世界解釈がニヒリズムとなり生の衰退を招くとしたのである。
だがいまの時代において死後の世界への信仰を持つ人がどれほどいるか、またいたとしてもそれが現実の世界にどれほどの影響があるのか。人はそう思うかもしれない。だがニーチェがニヒリズムと呼んだのは、そのような信仰そのものではなく、姿かたちを変えた「背後思想」のことなのである。
たとえば科学。遠く離れた人間と会話したり、月面に人を送りこんだり、かつては不可能と思われたことを次々と実現し、人類にさまざまな恩恵をもたらすもの。しかし反面、核や環境破壊、遺伝子操作など自然や生命を死の脅威に晒しているのもまた科学である。そしてこの科学というものの出生をたどれば、まさにこの世界を無機的なるものに分解し、生ける現実を否定するあの「背後思想」に辿り着くのである。
人工衛星から見た地球の姿。それは、まさにあの背後世界の神の視点から見たわれわれの姿にほかならない。そこでは人は大地に立つことを忘れた、巨大な視野の中の細分化された一点を占める粒子に過ぎない。人間や自然を細分化し、数値化していく科学の方法論とは、まさに死後の世界からこの世界を見つめる神の「無機的なるまなざし」なのである。神は死んだどころか姿かたちを変えてわれわれの周囲に蔓延し、死後の世界へと少しずつ導いているのである。
(詩集『さよなら21世紀』より)