海のなかのホメロス

 

 クジラは海のなかで広い周波数域を持つ音を発している。それはクジラの歌だという。歌は15分から、長いものでは1時間にも及ぶ。そしてそれらは拍子もメロディーも音階もそっくり同じままにくり返される。冬の海を離れて回遊の旅に出たクジラは、仲間たちといっしょに同じ歌を歌いながら、数か月後に戻ってくる時まで歌を途切らすことはない。
 この歌のほんとうの意味や性質はまだよくわかっていないそうである。しかしこの歌を音の高低による言葉とみなすと、一曲の中に含まれる情報は10の6乗ビットほどになり、これは古代ギリシャのホメロスによる大叙事詩『イリアス』や『オデュッセイア』に含まれる情報量とほぼ同じだという。いったいクジラたちは海の中で何を歌い、何を伝えようとしているのだろうか。
 歌は何も人間だけの特権ではない。このクジラをはじめ、昆虫や鳥類、魚類、その他さまざまな生き物たちも、何かしらのコミュニケーションや自己表現の手段を持っている。この世界はそうした彼らのじつに多様で独創的な歌で満ちているといっても過言ではない。そしてその歌の底辺には「存在の歌」とでもいうべき自然がもつ偉大なリズムやメロディ、そして言葉が流れているはずである。
 だがこの歌を妨害する族(やから)たちもいる。人間である。たとえばさきほどのクジラの場合、蒸気船が生まれて以来、船は海の中に騒音をまき散らしている。200年前にはクジラたちはおそらく1万キロメートル離れた仲間と通信することができたのに、いまではその距離は数百キロメートルまで落ちているのである。
 これと同じようなことは世界のいたるところで起きている。人間はその豊かな言語能力により、この世界に新たな歌をもたらしているかのようだが、じつはその存在自体が、原初より流れる多くの歌を破壊しているのかもしれないのである。
(詩集『さよなら21世紀』より)